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山形市では、古くから井戸水や地表の湧水を飲料水として用い、雑用水として河川の表流水を用いていました。しかし、季節や天候によって井戸水や流水が枯渇したり、飲料水を通して伝染病が感染拡大したりするなど、多くの問題を抱えていました。このような中、明治44年5月8日、薬師祭当日の正午過ぎに旅籠町から出火して市北一帯が猛火に包まれ県庁・市役所・裁判所・学校・銀行の他、工場や寺院を含む1,340戸が全焼する「市北大火」が発生、さらに同月の5月24日には十日町から出火して、市南繁華街114戸を全焼する「市南大火」が発生したのです。この大火となった要因は、季節風などの自然条件・環境的要因はだけではなく、消火用水の不足も一因とされました。このため、安定した安全な水を供給し、衛生上の問題を解消することと、度重なる大火対策の一つとして、消火用水を確保するため、水道創設の必要性が強調されるようになったのです。
市北大火(当時の県庁前通り)
大正時代の旧県庁前通り
このような状況を憂慮した、山形市嘱託水野好太郎・廣治親子の水道に対する熱意は強く、市南大火直後から馬見ヶ崎川上流・対岸の鈴川村印役の横坑地下水導入の状況などを視察調査し、市に意見書を提出し、給水事業の必要性と具現化の方策について提唱したのです。同時に水道布設には市民の理解と協力が不可欠であると考え、世論を高めるために、「山形市地下水道編」を自費出版しました。
市は水道布設の必要性を痛感し、さっそく水源貯水池の調査と水源地の試掘工事を始め、大正5年11月の議会に「水道工事目論見(もくろみ)書」と「山形市水道給水条例」を提出しました。
巨額に及ぶ工事費の財源確保などの困難はありましたが、大正5年度臨時事業として水道布設に着手することを決議し、国に認可申請を行いました。翌大正6年には、工事着手に備え「臨時水道工事部」を設置しましたが、第1次世界大戦の影響から資材が高騰し、工事費を増額しなければならず、国も財政を引き締めたため認可されませんでした。そこで市は工事費の総額を圧縮し、大正6年からの工事を大正7年からの2ヵ年継続事業とし、再度認可申請を行い、大正7年3月にようやく認可されました。
こうして大正7年10月10日、市内小白川地内の馬見ヶ崎川水源地で地鎮祭と起工式を挙行するに至ったのです。
水野廣治氏
「山形市地下水道編」
地鎮祭に先がけ、大正7年9月には「水道部」を設置し工事に着手しましたが、第1次世界大戦の終結とともに、日本経済の大戦景気が終わり反動不景気となり、急激に物価が高騰しました。これにより先に決定した予算の事業費では工事の進行が到底不可能となり、予定していた大正7・8年度の2ヵ年での完成は見込みが立たなくなったのです。そこで市は大正7年12月の市会で継続年期をさらに2ヵ年延長し、7年度から10年度までの4ヵ年継続事業に改めました。また、事業費も549,469円増額し、総額を1,147,754円として国・県に対しそれぞれ116,600円の補助を申請しました。しかし容易には認可されることはなく、市は工事費の確保に奔走することになりました。
大正8年には、山形市内導水管の布設、水源横坑掘削作業の進行、小白川に建設していた浄水場の事務所が完成するなど、困難な中で事業を進行させました。
しかし、大正9年5月7日に奥羽山脈系に豪雨があり、馬見ヶ崎川上流の葉の木沢地内のナヘ沢が大崩壊し砕屑土砂が下流へと流れ込み、砕石が地下水脈に潜積したことによって山形市内の井戸水が涸渇して市民は飲料水難に悩む事態となりました。思いもよらぬ災害とその対応のため、応急給水や水道臨時共用栓設置のため水道工事は遅れることとなりました。また、申請中の地方貸付資金が融資減額され公債増発が必要となり、3月に予算を補正、事業も1年延長し大正11年度までとすることが決定されました。
たび重なる困難を乗り越えて継続された一大事業は、大正11年8月にほぼ竣工となりました。10月までには県の監査も通過してようやく給水開始の運びとなりました。
このようにして山形市水道は明治23年に初めて要望され、調査費を市予算に計上してから実に33年の歳月を費やし、大正3年に水源試掘に着手してから9年目にあたる大正12年3月に事業がついに完了しました。
そして山形市水道の実現を祝い、5月4日に通水式が挙行されました。通水式は浄水場と県会議事堂で行われ、その後に開催された祝賀会には、多くの来賓が招かれ全市をあげた祝賀となりました。
山形市水道浄水場
水道通水祝賀会(大正12年5月4日 於:県会議事堂前広場)